KOZO DESIGN STUDIO INC.

COLUMN

時が熟成させるデザインの秘密
佐藤康三の“新もの派”宣言
「分母なき分子の発達」からデザインを転換せよ
佐藤康三氏が世に出るのは、1983年の多目的テレビ「トルテカ」のデザインによってである。しかし、この「トルテカ」は彼自身の自主製作による実験的デザインである。クライアントもいないプロトタイプであったが、これをみた企業からのデザイン依頼があって、日本でのデザイン活動はスタートすることになる。その意味で、習作「トルテカ」は、佐藤康三氏の造形の出発点であり、デザインの基点だといってもいいかもしれない。
フィッシングツール(1988年)、電話(1989年)、ステレオ(1990年)、プリンタバッファ(1991年)とプロダクトデザインが充実していく中で佐藤康三氏のデザイン活動は、80年代後半に大きな転機を迎えることになる。その一つは、相模大野駅北口、府中駅南口といった都市再開発のプランニングディレクター、デザインディレクターとしての活躍である。コリドーやストリートファニチャーのデザインから、サイン計画、商業施設と公共施設の接点のアート・プロデュースにまで及ぶその経験は、彼に大規模なコラボレーションのプロセスと人的ネットワークの重要性を認識させる。そしてもう一つは、それと相前後する形で始まるコーゾー・ブランドによる日用品のデザインである。これは流通やブランド・コントロールを彼自身が行っていくという、自らリスクを伴った事業へと展開されていく。佐藤康三氏の特徴は、実験的デザイン、都市デザイン、そしてコーゾー・ブランドによる商品開発、この3つの活動をパラレルにやっていく力にある。それぞれの活動が、彼のデザイン資質を広げ、お互いに影響しあって佐藤康三氏のデザインを多面的で魅力的なものへと広げていく。彼が学んだイタリア・ミラノのデザインがそうであるように、フラワーベースから都市再開発まで、それはデザインとしてずっとつながった、一貫した活動なのである。
今年1月、佐藤康三氏は活動の拠点を恵比寿から代々木の事務所兼住宅の新しい自邸に移し、コーゾーデザインスタジオの活動をスタートさせた。そこには、デザインを生涯続けていくという強い決意がうかがえる。デザインは、デザイナー固有の生活の思想の具現化にほかならない。「アグリアス」以降の世界のマーケットへ向かった活動が現在進行形の探究であるならば、もう一つこれからの佐藤康三氏のデザインになくてはならないものは、実験的デザインに対する新たな挑戦である。デザインの出発点となった「トルテカ」で見せたような、造形の真実、やわらかい抽象をめざして取り組んだ未知の可能性への探究なのである。
インタビューは、昨年12月16日、20日、今年1月28日の3回にわたって、コーゾーデザインスタジオ(恵比須と代々木)で行われた。Q:コーゾーデザインスタジオの活動は、今年で何年目になりますか?
佐藤:1983年がスタートなので、今年で18年目になります。
Q:その中で幾つかのエポックがあると思うのですが、デザインディレクターとして都市の再開発の仕事が始まるのは何年ですか。
佐藤:87年です。
Q:それはどういうきっかけ?
佐藤:相模大野に伊勢丹の新店舗の出店計画があり、総合ディレクターを入れようという話がありました。あの場合はプランニングディレクターですが、当時の責任者の取締役が私と話をしているうちに、私なりの人間を気に入ってもらい、私がその業務を引き受けました。
Q:それが1987年からスタートする。プランニングディレクターという関わり方ですね。
佐藤:プランニングディレクターと言っているのですが、実際にはプランニングだけではなく、デザインもしていました。店鋪の外観設計とか、細かいところまで全部チェックしました。色彩計画やサイン計画等、すべてのデザインに関する計画を手掛けています。
Q:デザインのジャンルは選ばないと言うのがあなたのモットーですが、プロダクトに固執するということは全然ないんですか。
佐藤:ないですね。ごく普通にそう思っていました。周りができるできると言ってくれる。(笑)だからそのつもりになって色々とやっているというのが実態かも知れません。伊勢丹の出店計画をしている途中で、このプロジェクトは、相模大野駅の北口再開発を全部やってもらえないかという話に変わり、それも同時に並行して始めました。
こちらは、デザインディレクターです。しかし、内容は同じです。再開発地区に都市型デパートが一つだけあっても仕方がありません。また、それだけが「デザイン」されていても仕方のない事です。新しく生まれる街には、そこの都市・町の界隈性が必要です。それを全部デザインコントロールしていかないとその新しい商業エリアの中心となる都市型デパートの出店の意味そのものが成り立たないという話は、再開発に関わる行政の方々にも企画の中でかなり強く発言しました。それではその方向でいこうということで、当時の相模原市長のほうに掛け合いに行って、「環境デザイン宣言」をして進めていきました。当然議会がありますから、それも通してやっていきました。たまたま米軍の払い下げ用地ですから更地に近い状態でしたので、まさに白紙の状態からの再開発でした。ここで、私は日本設計という設計会社との付き合いが始まります。クライアントとしては伊勢丹、再開発地区の都市コンサルタントの日本設計、市、及び日本設計より再開発地区の環境デザインディレクターを依頼されました。あとはあらゆる人たちが入って新しい街を作っていくというプロセスを踏んだんです。
Q:そういうコラボレーションは初めての経験ですか。
佐藤:これだけの大規模なコラボレーションは初めてです。ただ、私がディレクター、主体ですから、その意図を汲んでいただかなければいけないので、行政機関の方には円卓会議を設置していただきました。要するに役所は道路課とか公園課とか、全部縦割りですね。縦割りでは「デザイン」という行為は全体観をもってできません。横串もしくはサークル化していかないと、デザインの意図が伝わっていかないので、それを全員に知っていただく場を設定していただいたわけです。私はそれを“円卓”と言っていました。それ自体の呼称は、再開発地区環境デザイン委員会と呼んでいたと思います。
Q:事務所の活動としては、主事務のプロダクトデザインはプロダクトデザインでやっていて、87年から環境デザインというか、都市デザインというものが事務所の活動の中に入ってくる。
佐藤:私の仕事は都市の再開発のプロジェクトが中心となっていきます。個人的といったら語弊があるでしょうが、私が当時、心血を注いだのは都市開発環境デザインです。そこで日本の都市開発の難しさを知りました。
Q:都市の再開発の仕事はプロダクトデザインと違いがあると思います。ある面は同じでしょうし、プロダクトとは全然異質な部分も発見されたと思うんですが。
佐藤:いまおっしゃった、違うとか、異質であると思うこと自体がもう間違っています。それは同じ事です。
Q:都市開発でもプロダクトデザインとそのプロセスは同じですか。
佐藤:同じです。都市開発をしたときに仲間を作りました。寄らば文殊の知恵というか、それぞれスタンスの違う人間です。私は強いていえばプロダクト系です。ほかに建築関係と雑誌編集、媒体企画等の人たちですが、みんなで知恵を出し合って再開発の基本案を作成しました。そのあとはもう膨大な人間が関わります。デザインにとって人的ネットワークの重要性をその時に知りました。
それぞれの専門をフュージョンしますから、プロジェクトごとにいろいろな方々と集まることは、大きな開発の場合の特徴だと思います。そして、開発が終わりましたら、当然その集合体は解散しますが、今でも非常に重要な方々です。
Q:相模大野の再開発が終わるのは?
佐藤:90年の春、伊勢丹相模原店オープンの日です。4年近くやっていたんですね。
Q:その後、府中駅南口の再開発の仕事もあるわけですね。
佐藤:そうです。93年から始めました。都市開発の仕事は長い時間を要します。そうしますと他の業務にリバウンドが返ってくるんです。どういうことかというと、その間に製造業の方との接点が非常に希薄になっていってしまいます。ですからそのあと、プロダクト系の仕事は必然的に少なくなってくる。それは当然ですね。それでは駄目だと思って、ずいぶん動いてその時に高岡のメーカー竹中製作所の、当時デザイン室長であった金子さんと知り合って、プロダクトというか、生活用品のシリーズを開発しようというお話をいただきました。89年のデザインイヤーの時です。それが今の「KOZO Project(コーゾー・プロジェクト)」につながっています。これは、90年から開発がスタートします。
Q:これはどちらかというと日用品と考えたらいいんですか。
佐藤:日用品ですね。香炉とか燭台とか、時計、灰皿、オイルランプ、トレー、センターテーブル、そういうものを一連でかなりの数をデザインしました。
Q:1990年というのは、あなたの中で都市デザイン的な活動と企業との実験的なデザイン活動と、日用品のような、より生活に密着するプロダクトデザイン活動が3つのパラレルにあるという感じですね。
佐藤:それはありましたね。都市開発は基礎ができると一人立ちし、どんどん育っていきます。開発後は、ある意味での淋しさを感じます。それで、私個人の中でのもっと身近なもの、もっと一緒に育っていくものとして、KOZO Projectが最も自分の体温が伝わりやすいデザイン開発だったので、非常におもしろいことをやらせていただいた。
KOZO Projectは、91年9月、西武百貨店で「東京プロダクトデザイン‘91」という展覧会で、一気に30点近くの商品を発表しました。海外では、90年にイタリアのベローナで「アビターレ・イル・テンポ」という展覧会で発表しています。そのあと、商品を絞って92年に販売を開始しました。
Q:それでそのまま今日に至る?
佐藤:今日に至っています。92年に発売して、93年に次のバージョンを出しています。「KOZO Project Q%26C」を出しています。KOZO Projectというのは、どちらかというと高岡の伝統技法を使った、手間暇かけた商品ですから、値段もちょっと高いものです。それに比べてもうちょっと低価格帯の商品体系を作ろうということでQ%26Cというシリーズを発表しました。四角と丸、クアドラントとサークルの頭文字をとったものです。QC活動ではないですよ。(笑)
94年にメキシコシティで「コーゾー・サトウ・ジャパニーズ・コンテンポラリー・オブジェクト」という展覧会をやりました。これは個展です。そこで、KOZO ProjectとQ%26Cを発表しました。その反響がすごかった。なぜメキシコと思われるかも知れませんが、メキシコシティは、皆さんが思うカクタスとポンチョという世界ではありません。人口2000万の大都市です。芸術に大変興味をもたれる人々が多くいる都会です。その中で、雑誌、新聞等、各界の著名人が集まり、大変なことになりました。当然、デザイン開発に関わる色々なオファーが私にやってきました。それで、世界はちゃんと待ってくれているな、私がやっていることのセンスを認めてくれるなということで、世界にいけるなという感じを掴む事ができました。
Q:「アグリアスシリーズ」というのは?
佐藤:「アグリアス」という商品は、KOZO Project Q%26Cを発表し、その後インターフォームという大阪の会社とサニタリー関係の「セリエ・オネストシリーズ」(94年)を発表しました。
私の情報ルートから、これだけのものを作っているのだったら、世界で売る商品を開発したらどうかという話が出ました。N.Y.ルートで私の考えている事に賛同してくれる台湾の方の紹介を受け、早速台湾に出かけて共同開発のパートナー契約を取りました。その時にブランドコントロールの話をし、「アグリアス」というブランドで、私がデザインコントロールしていくことを前提としてその商品の開発を始めました。Q:これがスタートするのは。
佐藤:「アグリアス」の開発が96年からです。
「アグリアスシリーズ」で全世界販売が始まるのは97年です。
「アグリアスシリーズ」は時計が多いです。壁掛け時計、アラームクロック、あとはペン皿、灰皿、フラワーベース、キャンドルスタンド、これは日本では売っていませんが、あとは歯ブラシ立てだとか、石鹸置きとかドアフックとかの、基本的にはアルミニウムとプラスティックを素材とした日用品です。販売規模は国内だけの場合と全然違います。時計は、ワンアイテムで販売計画は10万個です。やはり自分でデザインしたものが広く世界を回ってくれる事は面白い。私がデザインしたものに対して共感してくれる人がいるということが実感できます。
Q:そういうものを実現していく事がデザイナーの面白味ですね。
佐藤:そうですね。開発は私がやるわけですから、開発リスクも相当背負うわけです。リスクを払わないと自分の思ったものはなかなか作れないのではないでしょうか。
Q:もう一つのあなたのデザイン活動の柱である実験的デザインというのは、90年代は停滞してしまうんですか。
佐藤:90年代は停滞していますね。バブル崩壊とともに、実験的デザインはほとんどなくなったんじゃないですか。企業側がそういう投資をしなくなった。例えば、家庭電化製品に対しては、デジタライゼーションの中でデザインの行き着く先が、造形ではなくて機能先行であったりデバイスの高度化であったりというところで、私の活動は停滞しています。
Q:そういう実験的デザインは、あなたのデザインワークの中ではウエイトは少なくなっている。相模大野から始まる都市デザイン、環境デザインみたいなものが府中駅南口の再開発でバージョンアップして、それは今後プロジェクトに出会えばまた進んでいくだろう。「アグリアス」では、自分のデザインの表現がよりダイレクトに製品を通じて実現していくというゴールがある意味では始まっている。実験的デザインについては多少ウエイトは減ったとしても、そういうものに対する活動は今後続けていきたい?
佐藤:実験的というのは、造形に関しては自分の中で自己解決できる仕組みを作ったと言ったほうがいいと思います。ただ、デジタル化の中では製品開発までたどりつくのがなかなか難しいし、逆に言うとさほど興味を示さなくなってきたという変化は、私の中にあります。
Q:ところで今年、自邸を建てられたというお話ですが?
佐藤:一つは年齢的な問題があります。一生デザインをやってやるという核心が私の中にあるわけです。そのためには、私のアトリエを構えないとまずいと考えました。要するに快適な労働環境を得るためには固定経費がかかりますが、それが借りていると自分にとっての「快適」が少なく、「無駄」な部分がみえてきました。そのためには作家と同じで、自分のアトリエを構える事の意味がみえてきた気がしたのです。借りていては駄目だ。自分の「もの」にしてしまわなければ。そうしたら少々大変でも、好きなことがもっとできるんじゃないかなという動物的本能から、これは作らなければいかん、と思い込んでしまった。デザイン活動を始めたころは、自宅と事務所というのは通勤しないといけないというのが概念的にあったんです。このスタジオを建てる前は自宅の住宅街からスタジオのある住宅街に通勤していました。その馬鹿馬鹿しさは4年目ぐらいからちょっと感じていたところがある。「私は何をしているのだろう?」という感じをもっていました。
Q:デザインを一生やってやるという確信みたいなものが生まれた?
佐藤:そうです。一生やります。一生やるためには、自分の快適な場所を確保しておかないといけないというので、それも設計条件に入れるとなると、マンションでは容量が足らなくなってくるので、事務所兼自宅を思い切って建てる事にしました。
Q:職住一体?
佐藤:職住一体というか、自宅は自宅、スタジオはスタジオとして独立した設計にしました。デザインワーク中には私は昼食も自宅に帰りません。自宅との行き来もしません。
Q:フリーランスのこれからのことも聞かなければいけないんですが、日本的な状況では一部フリーランスデザイナーは下請け的なとらえられ方みたいなものがある。また、最先端のエレクトロニクス技術とダイナミックに関わっていくようなかたちのデザイン活動は少なくて、いわばローテクな灰皿と時計と椅子しかできないという揶揄もある。
あなたはずっとフリーランスという道を歩んでこられたわけですが、日本のフリーランスデザイナーの現状みたいなものは、どういうふうに認識されていますか。
佐藤:フリーランスデザイナーというのは、人間が十人十色だったら、十人十色のものを「デザイン」を通して出していくべき人種なんだと思います。インダストリアルデザインというのは幅広いですが、その中で特にプロダクトデザインと言えば、自動車がいろいろな意味で代表格というのはよくわかります。それはそれでチャンスがあれば私にとっての車ということでやるでしょうが、それを灰皿しかつくれないと揶揄している人がいたとしても、私としては一向にかまわない。それはアイテムが違うだけであって、求めていることは、デザインにとって重要な造形としての美しさです。それがたまたまスーパーコンピューターであったり、車であったり、家庭電化製品でも日用品でもいい。大事なことはやはり造形美です。
Q:造形の美しさ、造形の真実。
佐藤:そう、いくら高性能であってもその「モノ」の造形が悪かったりするのはやはり「モノ」として完成されてはいません。フリーランスデザイナーは、もっと成果を発表すべきだと思います。私は私なりで、個人のデザイナーとしては発表回数は多いほうだと思います。他人がどうとらえているかはわかりませんが、極力展示会や展覧会はやるべきだと思う。そうしませんと、社会に対して「デザイン」で何を伝達しようとしているかということは、待っていたって分かってもらえません。だから分かっていただけるためのアクションはすべきだと思う。
いま30代のフリーランスのデザイナーが世の中に出てきています。彼らは結構発表しているんじゃないかと思う。私達の世代よりは展覧会数も多いし、その意味では少しデザイナーの「デザイン」に関する社会的環境は成熟してきているんじゃないかと思います。
Q:フリーランスのデザイナーが自分のデザインを作品として発表したり、企業とのプロジェクトの中でプロトタイプはできるけれども、それが製品としてなかなか実現できなかったり、あるいは形が変わって出てきてしまうということがままある。そういう部分も日本的な状況です。デザインの進め方とかプロセスとか、あるいはデザインインフラの中でかけている部分についてはどうですか。
佐藤:まず最近気になる欠けている部分は、日本の、特に中小企業のマーケットの見方です。マーケティングは重要な事です。しかし、ワールドワイドマーケティングではない。大企業は別ですよ。ナショナルブランド企業のデザイナーはワールドワイドでやっていますが、そうでない、多くの内需型であった中小企業やデザイナーは、マーケティングを国内とかアジア近郊ぐらいで、世界に向けてそれを作っていく、もしくは自分らで作っているものに対して全世界に対してのブランドロイヤリティみたいなものを作り上げようという事でない場合が多い。あくまでも島っぽい。
Q:閉鎖的ですか。
佐藤:世界が見えていない。要するにフリーでやるということは、その気になればかなりの事が自分で自由にできるわけです。企業は企業で企業デザイナーが努力をしているわけです。ただ、フリーランスの場合は、企業デザイナーと位置づけが違いますから、違う活動をすべきです。企業とフュージョンできるのだったらフュージョンする事です。できないのであったら、新たにデザイン活動の新領域を創造的に考えていく事が可能だと思います。今日は競争社会です。今後はもっと競争は激化するでしょう。企業のデザインの方でも苦労されている。ただ、材料手配から最後のサービスまで全部見ることはまれだと思います。それはセクションが分かれているからです。だから彼らが基本的になすべきことは、商品デザインをやらなければいけないとか、もしくはデザインに関するその企業のコンセプト立案であるでしょう。素材手配のところからサービスまで考えてやっていこうとした場合に、企業デザイナーには組織の組み立て上、なかなかできない状況にあると思います。フリーランスの場合はその気になれば、「デザイン」の大半を自分の思想を分母に自己コントロールできるはずです。それを強力にバックアップする製造メーカーと流通が出てくればもっとおもしろい社会になる。仕様書が回るような状態では、はっきり言ってデザイナーと呼べません。こうしてくれ、ああしてくれと言って、それをパーフェクトにやっていくのは職人さんです。それではデザイナーとしては困る。
Q:デザイナーはもっとクリエイティブであり、あなたの言葉でいけば生活の思想を持つ。
佐藤:生活の哲学を持てと。
Q:そういうものの表現だということですね。小さなフラワーベースから府中の駅前再開発まで、それはずっとつながって連続した活動であると。
佐藤:私の中では全部連続しています。しかし、日本的な見方では、私のデザイン活動は場当たり的にしか見えてないのかもしれない。デザイナーにとって専門的である必要があるのは、一般専門技術というのではなく、自己固有の思想のところを磨くべきではないか。それを具現化していくことは、スプーンであっても都市であっても同じことです。
Q:最後の質問ですが、「新もの派」を宣言されていますが・・・。
佐藤:今日の「デザイン」傾向としては、私もコンサルティングとかディレクションの重要性をずいぶん言っています。しかし、哲学者であったり思想家であれば、きっと私達に目に見えないかたちで語っていく事があるのだと思います。デザイナーの場合は形に落としていって、私の思想はこれだという具体的表現が要求される。そういうことで、やはりものを作って発表しないと駄目だと感じている。ものに表現するということをまずやらないといけないのではないか。イギリスなどヨーロッパではビジョナリストがいるでしょう。ビジョンを作る専門家ですが、デザインをやる人は当然、ビジョンは必要ですが、そのビジョンに対して具体は何かというものを目に見える形で提示していく使命があると思います。私がミラノで師事したロドルフォ・ボネットがいつも言っていたのは、他人の作品を見るな。雑誌を読むな。飛行機は飛ぶまで飛行機ではない(笑)。人生は難しい。デザイナーは生活を見ろ。資本家に加担するな。流行にのるな。永遠に古くならないデザインをしろ。先端的なものは駄目だ。凡庸であれ。堅実であれ−そんなことを言っていました。哲学を表現しろ。しかし、その哲学というのがまだ私にはなかなか明快にならない。
日本は、一つの取手にしても照明器具でも、便器でもガスコンロでも製品の数は多いように見えても、実際は主力メーカーといわれるものの中から2択、あるいは3択ぐらいからしか選べない。生活の中で選べる基本的商品バリエーションが少なすぎる。それがゆえに、非常に均一でつまらない生活風景になっていると思う。われわれは生活のために生きているわけですから、チョイスする楽しみがないということは、自分の生活の楽しみがないという事です。裕福でメイドを雇っていて、銀製品ばかりで生活したい。それも一つのチョイスだし、それでは困るからステンレス製品にしていくというのも一つのチョイスでしょう。ただし、そこに与えていく造形性に対しては、時代的な解決は施してあるということが重要なのではないでしょうか。
時代はものすごく変わってきています。プラダは、銀の爪楊枝入れまで作っている。カルバン・クラインもアルマーニもそうです。全部生活財の方に商品を広げてきています。洋服だけではない、生活、ライフシーンのすべてをコーディネーションし始めている。だから、デザインは生活全部をどうやってオーガナイズしていくんだというようなリーディングをする必要があるはずです。そうするといちばん基本になってくるのは、都市の空間性であったり、住宅の空間性が中心になって、その中で服を選んだり、置き物を置いたり、灰皿を選んだりというように、要するに都市、住空間という生活デザインの分母とそこに必要な様々なデザインとしての分子ができあがるわけです。
いま日本の状況は分母なき分子の発達みたいなものだ。ケータイ電話でいえば、本体のデザインはそっちのけで、ストラップの種類ばかりが話題になるのが日本の状況です。生活の豊かさ(分子)という意味でいったら都市環境、住環境(分母)がないんだという事に気づいていかなくてはならない。
しっかりとした生活の分母を作り、もっとチョイスの幅を広げるべく行動するためには、フリーランスがもっと活力を持って、それこそ過激に活動すべきだと思います。生活のビジョンをモノとして提示しているパーソナリティの強烈な表現が必要だと思います。また、日本にはまだその活動のチャンスが山のようにある事を忘れてはならないのです。
時が熟成させるデザインの秘密
 ヨーロッパの都市を数年ぶり訪れてみると、その風景がそれほど大きく変化していないことに驚かされる。パリやミラノに遊んだかつての若者の心を、時を越え、再び暖かく包んでくれる懐の深さを持っているのだ。それでも、注意深く町を見てみると、古くからのたたずまいの中に、巧みに現代を取り入れ調和させていることに気づく。例えばパリ。セーヌの中州シテ島にあるノートルダム寺院は11世紀の建造物であるが、市全体は19世紀にオスマン市長によって大改造されている。この間の700年以上の歴史の文脈にそった都市計画により、ノートルダムは今もなお、パリの町並みと調和を保っている。現在も、パリは再開発地区デファンス、科学文化地区ラ・ビレット、そしてルーブルのピラミッドと、現代の記号を散りばめながら、"飽きのこない"落ち着いた街を創出させる試みが続いている。このような都市の風景を基盤に、人々の生活スタイルもまた、人々の生活スタイルもまた、ゆっくりと時間をかけて時代と付き合う術を身につけているようだ。焦らずじっくりといいものを創り出す。このことは彼らのデザイン開発姿勢にも共通している。
 ミラノもパリ同様、時代の表現をバランスよく保ちながら成熟している街だ。この街から生まれる多くの新しいデザイン、その最大の特徴は、なんといってもロングライフ・デザインが多いということだろう。フロスやアルテルーチェの照明器具、カッシーナ、サポリーティ、ザノッタの家具、オリベッティが創るマンマシンやコンピュータ・システム等々、数えあげたらきりがないが、実に多数のデザイン・アイテムが10年以上の月日を経てもなお、古びることなく相変わらずの美しさを持って、現代の生活の中に溶け込んでいるのである。その秘密を探りたくて、ミラノ北駅近くのV. モンティ通りにある、ロドルフォ・ボネット・デザインスタジオを訪ねる。
 イタリア・デザイン界の重鎮の一人であるロドルフォ・ボネットは、"マンマシン=人間のための機械"と呼ばれるオリベッティ社製の工業生産機械のデザインなどで、広く世界に知られる。彼のスタジオの壁面には、少し黄ばみ始めたスケッチや、幾度も線を加えられ汚れたように見える原寸のレンダリング(完成予想図)が何点も、貼られている。そして、大きな机の上には、いくつものモックアップ(デザイン模型)が雑然と置かれている。東向きのその部屋で、リアルサイズのモックアップは、光線の加減で微妙にその姿を変化させる。スケッチもモックアップもすでに2ヶ月ほどの間、同じ場所に置かれたままだという。彼は、それらの一点一点を毎日のように難しい顔をして覗き込み、あるいは撫で回し、最低3ヶ月はやり過ごす。そうやって一度まとめた(つもりの)デザインを、時間の許す限り何度でも再検討するのだ。これは本当に"飽きのこない"デザインか、もっと良いデザインにならないか、そういう自問を続けているのだという。そして最終的には、新しいデザインがごく自然に彼の空間に存在し、心地よさを感じさせるものになったとき、初めて世にデビューする運びとなるわけだ。このような真摯な態度と豊かな時間の流れが、結局は、"飽きのこない"優れたデザインを生み出す秘密なのだろう。
 デザインもアイデアを熟成、発酵させる時間、つまり"寝かせておく"時間が必要なのである。ちょうど美味しいワインを作るのと同じように。デザインのフェルメンテーションに乾杯!
(JAPANANENUE:1990:Kozo SATO)
時が育むデザインの秘密
 イタリアン・カフェ"エスプレッソ"は、日本の食の場面でもずいぶんと一般的になってきた。ほんの3年程前までは、本当に限られた店でしか飲むことができなかったものだ。味もアメリカナイズられたそれであったようだ。
 エスプレッソの中でも、カフェ・ナポリターナを、イタリア人は最高だと言う。ナポリ風コーヒーのことである。イタリアンローストされた香り高いコーヒー豆の粉をフィルター部にめいっぱい押しこみ、さらに砂糖を入れて、コーヒーの濃縮エキスを搾り出すといった感じのものである。 ローマからさらに南200km、ベスビィオ火山を懐く、ナポリ人の街、ナポリ。北イタリア人は、このレモンツリーの美しい並木を持つ南の港町を、「あそこは、アフリカだよ」と言い切る。どうも彼らとは気が合わぬらしい。しかし、海、山の幸ともに豊かなこの地は、庶民においても、大変な"ボン・グスト"(美食家)だ。"アッラ・ナポリターナ"(ナポリ風)はイタリア料理のメニューに必ず多く登場するのである。
 おいしいもの好きが創り上げていく食文化は、材料が基本にあるだろう。しかし、それらの素材を活かす道具の存在は同様に重要だ。カフェ・ナポリターナの場合、そのコーヒーを本当に上手に仕上げるのは、ナポリの庶民が使っているコーヒーメーカーなのだろう。イタリアでも一般的な"モカ"のコーヒー入れとは違い、ほとんど手作りのようなこの道具に、実は、すべての旨味を出す秘密が隠されているようだ。
 1986年、インダストリアル・デザイナー、フィリップ・アンソンは、この手作り風コーヒー入れの秘密に着目して、この道具をリ・デザインした。オリジナルが持つ"秘密"つまり、道具と味の因果関係、内気圧、コーヒー受けの容量、フィルターのあり方等すべての"機能"を解明し、さらに、生活空間の質を向上させるデザインを導入した。蘇ったこのコーヒーメーカーは、原形のフォークロリックなイメージを巧みに残しながらも、シルバープレートされ、実に優雅な姿を生活の中へ再提供してくれている。何よりも最高の味のカフェとともに。
 同様のデザイン思想のもとに、パスタの茹で釜が生まれた。パスタは、ジェノバの主婦の茹で方が上手だそうだ。そこには、やはりジェノバの生活の中で育まれた道具があった。その道具の秘密は、さらに、デザインによってその存在の意味が高められた。インダストリアル・デザイナーのリチャード・サッパー、建築家マイケル・グレイヴスらによって、このような食を中心とした新たな道具のデザインがアレッシィ社から近年、精力的に発表されてきている。これらによってキッチンの風景は、ずいぶんと豊かなものへと変化している。
 確かに、20世紀の最も重要なテーマは、テクノロジーとサイエンスの発達であった。食の道具においても、昨今は、ファジー理論を持ってプロの味が出るという、単にコンピューターライズされた道具が大量に生産されている。これらは、大きく私たちの生活に関与し、また、生活を大きく変化させている。しかし、生活のクオリティの向上という点において、単にハイ・テクノロジーやサイエンスに頼るのではなく、もっとシンプルでナイーブな視点を持って豊かな生活シーンを求めることも忘れてはならないだろう。
(JAPANANENUE:1990:Kozo SATO)
地域性ゆえに国際性をもつ必要
■ 関心は"ID"という言葉だけ
IDの職務内容が、内部デザイナーを抱え込んでいるメーカーによってさえ、あまり理解されていない現状があります。一般的に見ると、経営者はIDの"デザイン"という言葉のみにしか関心をもっていないようです。同時に現在のIDデザイナーも、世の中の曖昧なデザインのとらえ方になれてしまっている点も見受けられます。本来、ことデザインに関しては、デザイナーの発言は強力なものでありたいと思いますが、メーカーサイドの都合のよいデザイン上の発言は往々にして政治的な力を得て、デザイナーの発言を押さえつける傾向があります。これはIDというものをあくまでも製品のハウジングデザイン程度にしか考えていない彼らの教養がそうさせるというと、言い過ぎでしょうか。今日、われわれIDデザイナーが何をしなくてはならないか、そして今後どの方向に向かってIDというものを進めて行く必要があるか、といった実質的なデザインの解明を行う前に、驚くほど無関心な経営者サイドに、IDとはどのようなものかといった理解を求めるという甚だ基本的行為(基本的であるにもかかわらず、今日まで積極的には行われてこなかった)が何よりも急務だと思われます。なぜなら、経営者サイドにIDに対しての無関心が続く限り、本当のところデザインの向上を図ることは極めて困難なことであると思われるからです。たとえば、AならばAという商品が、B社でデザインされたもの、C社でデザインされたものも、現状においてはデザイン上、大同小異です。なぜこういった状況が生まれるのかと考えてみますと、その商品のマーケット、ターゲット、性能、価格などの調査段階ではどのメーカーにおいても十分な調査期間を設け、商業的・技術的側面での開発ウェイトを非常に高くしているにもかかわらず、デザイン上の解答を見い出す段階においては十分なデザイン開発期間が用意されておらずまったくの生産性本意のデザインで終わってしまっているということが、まずいえるでしょう。短期間でデザイン処理する能力は必要ですが(このことは逆効果をもたらし、現状ではIDというものが安易にできるという誤解を生じさせています)、経済性・機能性・安全性等々のあらゆるファクターを考慮に入れながら、かつ美しいものを創り出すには、やはり手間がかかるものだという認識が必要でしょう。外国人デザイナーを起用した日本製品デザイン開発は1年・2年とその開発に月日を要したとデザインの重みを強調することがあるかと思えば、日本国内においては同一のものに2?3週間の短いデザイン開発期間しか与えぬといったようなアンバランスな感覚は、本質的にはデザインそのものに対する無理解、または承知した上での国内のデザイナーに対する愚弄的行為だといって過言ではないと思います。こういったメーカーサイドの態度に対しては、今後IDのあり方が大きな意味でどのように変化して行くかを真に究明しているデザイナーは、どうしても孤立したものを感じざるを得ないのが現状です。しかしまた、このような現状のなかで矛盾を抱えながらも、IDデザイナーは現実に日本においても世界的視野なくしては語れぬデザイン上の様々な問題点に立ち向かっている、いや立ち向かわざるを得ないということもいっておく必要があると思われます。
■ あらゆる価値体系の相互作用
今後、IDデザイナーにはものに対して大きく分けて形態・機能・経済性の3点を今までより以上の卓越した判断力をもって見極める力が要求されてくるでしょう。そして、デザインの仕事はIDを取り巻く他の要素と同様に、より高度な複合的プロジェクトとなって行くだろうとも考えられます。これは単にマーケットの解析、ターゲットの分析、技術の進歩だけでは到底解決できない、人間とものとの基本的かかわりが改めて問い直されてくると思われるからです。そのような状況下において、私達のようなフリースタジオのあり方は、そのスタジオの基本思想を明確にデザインに打ち出して行くことが当然必要になって来るでしょう。私達のスタジオでは"より自然な人間とものとの関係"を基本思想としてデザインを進めています。具体的には、人間と機器との接点を捕らえ、どのように機器を人間にとってより近しい存在とさせ得るかといった問題を考えています。そして今後こういった事はデザインを進める上で、あらゆる価値体系を相互作用させて生み出して行かなくてはならないだろうと予感しています。また、ものの本質を表現するべく、フォルムの決定はその製品を取り巻く複合的状況下で判断して行かなくてはならないだろうと考えます。なぜなら、その製品の提供される環境、つまり人間社会において、そのものの人間に対する座標点はライフスタイルなどによっても非常に変化するものであるからです。そしてまた同時に、高度に発達を遂げているハードとしてのコンピューターをいかに、デザインのソフトに活用して行くかといった問題も、これからの課題であると思われます。基本的にIDの根底にある人間性を忘れずにコンピューターを適切に活用することは、IDのデザインプロセスを現状のものより高度化させる可能性を十分にもっていると考えられるでしょう。私達自身の風土や考え方を大切にし、その地域性ゆえに国際性をもつという広い視野を忘れず、デザインの研究と開発をダイナミックに進めていきたいものだと思うのです。
商店建築1984年12月号より
直線・曲線・平面・曲面・シャープ
■ それがもつ性質ゆえに、永遠に美しい
「私は、ものの形の美しさについて語ってみよう。だがたいていの人が想像しそうな生きものの形とか、それを絵に写したもののことではない。直線や曲線、あるいはコンパス、定規、直角定規を使って引いた直線や曲線からなる図形のことである。他の普通の形の場合と違って、これらは何か特殊な理由や目的のゆえに美しいのではない。それ自身がもつ性質のゆえに、永遠に美しい。」(プラトンの『ピレポス』にみるソクラテスの言葉)工業デザインの造形における基本的要素も、複雑に組み合わされた直線と曲線であるといえると思います。これを制作して行く立場から考えますと、もちろん工業製品は立体ですからある程度三次元的姿を予測しながら仕事を進めるわけですが、あらかじめ計算された直線と曲線の組み合わせからも、時には思いもよらないヴォリュームや陰影が生まれることがあります。また色彩や素材によっては、図面上の直線が曲線に見えたり、曲線が直線に見えたりすることもあります。ですから反対にその効果をねらって、あらゆる要素を考慮に入れながら、直線的デザイン、曲線的デザインを創り出して行くことも当然可能なことであるといえるでしょう。
■ artとART
さて、一口にID製品のデザインを直線的、曲線的というのはなかなか難しいのですが、欧米においてのデザインの様式はアート(大文字のART)の分野と重なり、その直線的、曲線的様式がそのままデザインにも大きな影響を及ぼしているといえるでしょう。いや、デザインがアートに影響されているというよりも、デザインは会社や生活に密着した広い意味でのアーツ(小文字のarts)であり、その歴史はアートとまったく平行して流れているといった方が正確かもしれません。アート・アンド・クラフト運動、アール・ヌーヴォー、アール・デコ、バウハウス運動、といった流れは曲線的デザインから直線的デザインへ、直線的デザインから曲線的デザインへと、大きなうねりをもったデザイン活動の流れでもありました。そしてバウハウス以後、形態の研究はもちろんのこと、何よりも重要視されたのが規格化された素材と規格化の技術の開発研究であり、それが最終的にはアートとテクノロジーの分裂をもたらすきっかけになったといえるかもしれません。しかしまた反対に、そのときからある意味でのIDデザインが始まったともいえます。直線と曲線の問題も、初めてテクノロジーと関連して考えられるようになりました。たとえば、1930年代の空気力学がIDデザインに及ぼした影響にははかりしれないものがあります。飛行機や車体の流線形体はあらためて、生物界の有機的形態とデザインとの関連の重要性を明らかにし、現代のルイジ・コラーニのバイオ・デザインを生み出すもとともなったわけです。一方で、そのことから運動性をもたない機器が直線的デザインに傾いて行くのも、極く当然の結果であったように思われます。機能主義が優先され、明快でシンプルで、そして直線的であるという考えは随分と長い間続いているといえるでしょう。
■ それでいてシャープなものを
美しく、明解な幾何形態をもつデザインとして世に出た直線的デザインのはしりとして、1960年代の初期のマリオ・ベリーニによるオリベッティのエンコーダー「CMC7」が挙げられます。イタリア経済の"黄金の60年代"はイタリアのIDデザインにおける黄金時代をもたらし、その後の世界のデザインの流れを決定づける重要な役割を果たしました。イタリアの直線的デザインは、基本的には幾何形態の組み合わせ、つまり様々な倍率の立方体や円錐や円筒や球の組み合わせともいえるのですが、それぞれの接線には必ず微妙な丸みがつけられていて、非常に穏やかな雰囲気をかもし出しています。ですから、直線的でありながら決してアグレッシブではなく、また無機的形態とも有機的形態とも言えない独特の形態をもち、常に個々のデザイナーたちの力強い造形性によって支配されているといえるでしょう。それに対して、日本においては近年になって漸く丸みをもった形態が生まれてきていますが、一時期は直線的デザインという言葉を自ら限定し、ヒステリックなほど丸みのない、エッジの立った、角張ったデザインがなされてきました。そして、いつの間にか明快でシンプルなデザインは味も素っ気もない四角四面の面構えをもった、実に非個性的なデザインとなってしまったわけです。それは、一言でいえば人間味がなく、如何にも機器然としたギスギスした顔をもっていたといえると思います。さて、メカニックの入った機器にも丸みのある温かい顔を求めるようになった昨今、まずはイタリア的直線的デザインに見習うものが大きいのですが、その後はどの方向に進めば良いのでしょうか。新しい造形を表すには、以前の直線的、曲線的デザインという分け方は最早あまり適当な分け方とはいえないかもしれません。直線と曲線が、平面と曲面が微妙に交差し、美しく優しく人間味があふれ、それでいてシャープであるというようなデザインを創り出して行きたいと思うのですが・・・。
商店建築1984年11月号より
フルチョイス時代のIDのあり方
■ 少量多品種の時代
今は少量多品種の時代だといわれています。工業製品の大量生産を目指した、長年の生産サイド側の一方的な単一化、・画一化がユーザーに不満を与え、その反動としてこの傾向が、現れてきたように思われます。家庭電化製品を例にとれば、現在ではほぼ一様の家電製品が全国のユーザーに満たされています。それまでは形にしろ、色にしろ、特にとやかくいうことはなく、ともかく便利とされる新しい機器を手に入れたいと熱望していた時期がありました。そしてあらゆるものが満たされてきて初めて、形とか色とかいわゆるデザインと称される分野が気になり始めたと考えられます。ものを購入する際に、気持ちの上で余裕が出てきたといえるのかもしれません。
これは、現代日本において、衣・食・住すべての面において言えることだと思います。ただ住に対しては、特に大都市において、決定的な広さに対する飢餓感を感じるわけです。その代わりといって良いのか、ここの住まいをあきらめた都会人には、都市というひどく広い完全フルチョイスの場所に、小金さえ出せばすぐに手に入るレストランでの食事とかカフェバーでの飲食、ホテルラウンジでのくつろぎ、大庭園での散策、ラブホテルでの御休憩等々、あらゆる好みによって選択できるあらゆる種類の空間が与えられているわけです。たとえば、東京ほど世界中の食事を楽しめる都市はないでしょう。それも味や雰囲気を含めて本場らしく、です。パリよりもロンドンよりもミラノよりもマンハッタンよりも、というのは決して大袈裟なことではないのです。衣料もそうです。春もの秋ものとファッションサイクルを激しく回転させ、世界中のブランド・ニューファッションが流れ込み、これまたユーザーはフルチョイスの時を迎えているといえます。そして、驚くべきことは食にしろ衣にしろ、それを提供するメーカーとかレストランは競い合ってそれぞれの個性をあらゆる手段で私達に伝達し、また私達はあそこのものは私にとっては良いとかおいしいとか始終話題になり、気にかけていることです。
■ 没個性化を望む何かの存在
そのような時代ですので、家電製品も自ずと何故フルチョイスできないのかと、ユーザー側が不満をぶつけてくるというのも、当然といえば当然な時流だと思われます。しかし、日本に中小を入れるといったいどのくらいの弱電メーカーがあるかまったく見当がつかない中で、大手5?6社だけを考えてみても、それらのメーカーから出てくる商品は実に没個性的だといわなければなりません。それは弱電に限らず自動車や二輪車においても、一体どのメーカーが生産しているのか一般的には甚だ分別しにくいくらいに単一化・画一化されたデザインが生まれてきています。車も、もうなんだか分からないトヨタのセドリックとか日産のクラウンてなことになってしまいそうです。ステレオもビデオも電子レンジも何もかもどのメーカーのものか、その形態からくるアイデンティティーがほとんど感じられないわけです。逆に、何故そこまで画一化されたデザインが生まれてくるのだろうというような疑問を感じるほどです。ひょっとすると、誰かがすべてのデザインをコントロールしているのだろうかとさえ思えてきます。ユニークでオリジナリティー溢れる商品づくりをしようと最初はデザイン開発が進みますが、最終的には他社の動向等を意識しつつ大同小異の商品に化けてしまうことには、全生産工程上に没個性化を望む何かが存在しているのではなどとも思ってしまいます。
■ カラーバリエーションの背景と差異
現実の市場を見ると、2?3年前より目につき始めたこととして、単一機種におけるカラーバリエーションの増加といった傾向があります。ラジカセなどに代表されるように、従来1?2色で市場に発表されていたものが現在では5色くらいあるようです。それも従来のIDカラーと呼ばれる、IDデザイナーサイドでのカラーリングだけでは対応しきれなくなり、商品ターゲットとなる世代の流行色をファッションの方面からのカラーリングを急速に導入し始めています。今やラジカセやコンポがピンクやペパーミントでカラーリングされているのは極当たり前になってきているわけです。イギリスの"DESIGN"誌7月号に、この日本の弱電マーケットにおけるパステルカラーブームが取りあげられていました。「日本のメーカーは消費者のライフスタイルかファッション動向に非常に注意を払っている。」、そして「50年代のアメリカのマーケットに似ている。」と述べています。確かに一昔前は、車といえば黒しか思いつかなかった時代がありました。同様に家電にも一定の色しか思いつかなかった時代があり、ブラウン社のデーテル・ラムスのように、カラーリングは白と黒以外には考えられぬといい切ったこともありました。このことから比べると、現在の日本のマーケットは飛躍したといえるかもしれません。つまり、そのこと自体の是非よりもID製品に対する画一的な概念を変えたという意味合いにおいては、と思われるわけです。ただし、この傾向が50年代のアメリカではデザインそのものに関わる問題としてのよりアートの分野とかかわりを持っていたのに対して、日本においてはマーケティングサイドからの現状突破を目指す、市場拡大を目的としたものであることは忘れてはならないでしょう。
商店建築1984年10月号より
提案、提供してきたものを見直すとき

■ IL DESEGNO DEL PRODOTTO INDUSTRIALE
今日、IDのフリースタジオの活動が徐々に活発になってきました。そして、活動内容も変化しつつあるように思います。IDの仕事は、その名称の故か、何か随分とかたい仕事だけをしているのではないかと思われがちです。そんな折、ここにIDデザイナーの仕事範囲の広さをヴィジュアルに理解できる、いい本が出版されました。"IL DESEGNO DEL PRODOTTO INDUSTRIALE「工業製品のデザイン」"(イタリア・エレクタ社)がそれで、ベネウィアの建築家でありIDデザイナーであるヴィットリオ・グレゴッティによって編集され'82年に出版されました。1860年?1980年の120年間のイタリアの工業製品を時代別、ジャンル別に紹介し、IDデザインとは、IDデザインとはどういうものであるかを総合的に説明し得ていると思います。日本においても、現在行われているIDデザイン活動のあり方は大体1950年代にかたちづくられました。しかし、社会一般にその活動内容を分かりやすく説明する努力がいま一つ足りぬまま今日に至っているように思えます。もっとも、このような本をまとめたりする時間さえも日本のIDデザイナーが持ち得ずに毎日を過ごしてしまっているのかもしれませんが。

■ 開発期間の長さが意味するものミラノのロドルフォ・ボネットスタジオで仕事を始めた頃、あるプロジェクトのデザインがまとまって一息した時、当時の私には、随分と不思議に思えることを彼からいわれました。一通りのデザインプロセスを経て、スタジオ内で十分にコンセンサスを得たデザインをすぐにクライアントに提出しないというのです。そしてまた、最終的なモックアップ、レンダリング、意匠図面を1?2週間放っぽり出しておこうというのです。初め何故か良く理解できず、妙なことになったと考えました。次の日から別のプロジェクトを開始したのですが、毎朝そのデザインアップされた作品との御対面が続くのです。2、3日は「これ、いいよ!」なんて思っていたのが、1週間もたつとここを修正しよう、あそこの角度から見ると思ったより効果がないなど、スタッフ全員で話が進み、結局、始めからやり直すこととなりました。クライアントがそのデザインを気に入った、気に入らなかったという話ではなく、結局社会に提供するものとして、デザイナー側が納得し切れなかったというわけです。そのことを決断したデザインスタジオサイドに対してはもとより、決断に関してより良い解答を期待することを求めたクライアントのデザインに対する度量の深さに対しても、感心せざるを得ませんでした。よく練られたデザインは、このようなプロセスを経ても毎日新鮮に見えるものですし、新しいデザインの歴史の1頁を開いたな・・・と実感できるわけです。
一見うらやましいような状態ですが、じつは非常に苦しい時間でもあるのです。この苦しい時間の中で初めて、今あるべき造形を生み出すことができるようです。歴史は確実に流れています。もどることも、もどる必然性も見出せません。
そんな長い歴史の重みの中で、今あるべき造形とは何か、を考えてデザインを進めて行くことが大切なのではないでしょうか。ハードとしての技術はまさに日進月歩しています。しかしソフトとしての広義のデザインは、日進月歩とはなかなか行きません。歴史、文化、思想、経済・・・あらゆるファクターを通して初めてデザインは生まれてくるものだからだと思います。

■ 文化的発言者としての職業意識を

イタリアでの毎日のデザイン活動は、思想活動に近いものであることを非常に感じました。イタリアのデザイナーの持つバックボーンは、いかにより良いものを会社に提供するか、いかにその時代のIDという立場からの総合的な美を社会に提案するか等々、その時代の文化的発言者としての職業意識が高いことだと思います。売れさえすれば良いだけの商業的発想は文化的崩壊に繋がると商業主義的デザインに危険性を感じ、デザイナーはプロであるが故に、自らのアイデンティティをデザインに対してどう表現するかを大きな課題としているようです。ゆっくり時間をかけてデザインワークを進めることは、IDの場合、日本のデザインサイクルの中ではあまり望めない状態だと思います。しかし、おもしろいことに日本の場合は一般的にショートサイクルでのデザインレベルは想像を絶するほどのまとめ方をしています。ただ、短い時間の中で「エイ!ヤ!」とやることに慣れ過ぎてしまっているような気がします。ですから、何か余裕を感じさせるデザインが少ないように思います。そろそろ日本のIDの方向も余裕のあるものにして行くとおもしろいのではないでしょうか。今や文化の上で、IDも確実に大きな存在となっています。時間をかけ、冷静に私たちIDデザイナーが社会に提案、提供してきたものを見直す時期がきていると確信します。物質があふれ始めた日本でこそ、デザインを見直すことは大切であると思っています。

(1984.佐藤康三)
「美しいことをしようよ」-3
■ 思想の伝達、思想の統一
 一般的にイタリアのデザイン・スタジオは、少人数で構成されている。大体五、六名のスタッフがいるだけである。世界的に著名なIDデザイナーのカスティリオーニ兄弟やマリオ・ベリーニ、あるいはエットーレ・ソットサスJr.、ロドルフォ・ボネットらのスタジオも同様である。例えば、私が勤めていたロドルフォ・ボネット・スタジオも当時、デザイナー四名、研究生二名、事務二名の計八名であった。現在これらのスタジオの中には、ID以外の分野へ進出しているものもあり、ある程度拡大化されているが、基本的には中心となるメンバーが非常に少数である。
 このようにイタリアのデザインスタジオが少人数で構成されている最大の理由は、デザイン・ワークを行う上での思想の伝達、思想の統一をはかることができるのは、せいぜい五、六名のスタッフによってであると考えられているからである。彼らは自分たちのスタジオのデザイン・フィロソフィーを非常に重要視しているので、そのフィロソフィーを明確に作品上に投影するためにも少数で活動することがベストであると言う。例えば、メンフィスの活動によって日本でもたいへん有名になったソットサスJr.のスタジオは、この活動を始めた当初は五名くらいのメンバーであった。その後、ソットサス・アソシエイツとして、IDだけでなく建築インテリアへと分野を拡大し、現在では総勢三十数名のスタッフを有している。しかし、ソットサス自身はメンフィスの活動停止と同時に、またもや五名位のブレーンでエノルメという活動を行いはじめている。つまり、彼の思想をダイレクトに表現する本来のデザイン活動を行う時には、必ず少数化して思想の統一をはかるわけである。
 イタリアにおいて、巨大なデザイン・スタジオが極めて少なく、かつ企業デザイナーが非常に少ないのは、経済に隷属した状態では自由にデザインの創造活動ができないこと(自明の理であるが)を知っているからである。また、イタリアの企業もデザイン活動とは何かをよく理解していることから、デザイン・スタジオとの接触を通常コンサルティング契約としている。例えば、先程の有名デザイナーのデザイン・スタジオ等では、そのスタジオの有力クライアントがスタジオとコンサルティング契約を交わし、かつスタジオに隣接したかたちでクライアント自身のデザイン・ルームを接続させていることがある。例えば、ボネット・スタジオの場合には、スタジオの上階にフィアット社の内装部門がデザイン・ルームを移している。また、マリオ・ベリーニ・スタジオには、同様にオリベッティ社のタイプライター、電算機部門のデザイン・ルームが隣接されている。このようにすることによって、デザイン・スタジオとクライアントのデザイン・ルームは常に最良のコミュニケーションを得ることのできる状態で、デザイン・ワークが行えるわけである。しかしながら、デザイナー自身の思想表現の場であるスタジオには、当然他の多くのクライアントからの仕事があり、スタジオ・スタッフと隣接されているデザイン・ルームのスタッフとは別々である。
 イタリアにおいては多くのフリー・デザインスタジオが存在し、車内デザイナーが非常に少ないのは、先にも述べた通りである。また、デザイン・スタジオのデザイナーもほとんどがいつかは独立しようと考えている。いつまでも長く、同じスタジオに勤めているのは、むしろあまりよい状態ではないと考えられているぐらいである。三、四年単位でスタジオを代わり、自分の力をつけていくのが一般的である。しかし、嫌になったら移るというマイナス要因ではなく、あくまでもプラス要因を求めて可能性を見つけて行くのが一般的であるだけに、スタジオのボスもそのへんの事情をよく理解していて、自分のスタジオにいる間にできる限りの可能性を与えてやろうとするところが、日本では少し考えられない点かもしれない。そのあたりは非常にラテン的である。そしてまた、スタジオにおいて有能であり、後独立したデザイナーとかつてのスタジオとの間で、コンサルティング契約が結ばれる例も多い。これなども、日本ではなかなか生まれてこないシステムであろうと思われる。日本においてはのれん分けという考えもあるせいか、独立したものとかつてのボスとは社会的に並列ではなく、上下関係になる場合が多いようだが、彼らの場合はあくまでも並列関係である。
 また、このようにあまり上下にとらわれない関係は、スタジオに入る時点においてもそうであると言える。例えば、ミラノのスタジオでは一般的に三ヶ月間の入社研修機関がある。この間、スタジオ・サイドはそのデザイナーの能力をあらゆる角度から検討し、同時に入ろうとするデザイナーもそのスタジオが自分に見合っているかどうか見極めることができる。そして、三ヶ月の研修の後、相互に納得の上で、具体的な条件について話し合うのである。スタジオ・サイドとしては、やめてもらうか、一人前のデザイナーとして認めるか、研究生として入ってもらうか等のいずれかの決定を下すわけである。そして、一人前と認められるとすぐに、一つのクライアントが与えられ、スタジオでのメイン・ワークが決定される。そのクライアントについては、ボスとそのデザイナーが主力となり、他のデザイナーがアドバイザーとして働くようになる。
■ 社会構造全体の安定
 幸い私もボネット・スタジオにおいて、三ヶ月後一人前のデザイナーとして入社を認められ、早速某弱電メーカーのデザイン・ワークをメインとしたプロジェクトとスケジュールが決定された。二十畳位の広さと三メートルを超す天井高の非常に快適な一部屋の中に、私専用のフルサイズを越すドラフターと大型のデザイン・デスクが準備され、必要なデザイン用具がすべて与えられた。自由な創造活動としてのデザインを始める条件がこうしてすべて揃ったわけである。
 ミラノのデザイン・スタジオにおいては、クライアントが実に様々な部門にまたがっているのが、極めて普通のこととして受け取られている。例えば、当時のボネット・スタジオにおける主なクライアントは、オリベッティ(重工業部門)、フィアット(内装部門)、ヴォクソン(弱電部門)、インデジット(弱電部門)、等であり、その他に計器メーカーヴェリア、家具のエルコ、照明のアルテルーチェ、雑貨のヴァレクストラ等があった。このように様々な部門のクライアントを並列してもっているのには、デザインという行為をもって最終的に具体的な造形物として何かを視覚化されることにおいては、"水平軸マシーン"(オリベッティ)であれ、"アタッシュケース"(ヴァレクストラ)であれ同じようにデザインすることができるものであり、重要なのは根本的なデザイン・フィロソフィーであるという明確な考えがあるからである。
 さて、イタリアのデザイン・プロセスは日本のそれとは随分異なる。イタリアにおいては、デザインされるものの市場性、ターゲットとなる世代の特性、感性分割による方向性等のいわゆるマーケット・リサーチがほとんど行われない。ある意味では、それらのことをする必要性があまりないぐらいに、市場としての社会構造全体が安定してしまっているからである。例えば、ある一つの照明器具をデザインするとしよう。その器具がヤング向け、アダルト向け、あるいは家庭用、事務用、店鋪用のいずれのターゲットを合わせたものか、かりに家庭用とした場合、どのような場合、どのようなライフ・スタイルに合わせるのか、造形の醸し出す雰囲気はハイテック調にするのか、ハイタッチ調にするのか・・・・・・等々のことは実際のところあまり重要視されない。デザイン・ワークは極く基本的な条件を押さえることから始まる。デザインされるものがテーブル・ランプなのか、フロアーランプなのかといった程度の空間における実質的な設置場所を規定するだけである。つまり、デザインされるものの受け手(消費者)の好みがどうだこうだということは、ほとんど問題にならないということである。何故なら、イタリアのデザイナーの考え方の中では、デザインする立場の人間は"デザイン"ということに関して、デザインを専門としていない人々より、はるかにデザインされるものを複合的な視野に立って創作している、よって、デザイナーの持つ美的経験性をデザインの受け手に提供して行くことが至当だとうしているからである。デザインの受け手は自由にそのものの好き嫌い、または優劣を述べるであろうが、それはあくまでもミクロモンドの話であって、デザインという複合的要素を持つ創造物に対する絶対的評価には何ら値しないということである。
 また、デザインされたものの結果の一つとして、そのものが売れたか売れなかったかということが出てくるが、このことはイタリアにおいてはデザイナーの問題ではなく、まったくの資本家サイドの問題とされている。それが資本家サイドの問題だと思い切れる背後には、すでに冒頭で述べた通り、イタリアのデザイン活動においてはデザイナーはデザインに対する世界観、歴史観を踏まえた、ものとは何かという哲学的思考のもとに造形物を視覚化することを第一とするというコンセンサスが社会的に認められていることがあるのである。ギリシャ、ローマ、中正、ルネサンスと現代のイタリアという国の中に流れるカルチャー・コンテキストを重視することは、イタリアのデザイナーにとっては、その流れを受け継ぐにしても、常に回避することのできない課題として受けとめられているということができるであろう。
「美しいことをしようよ!」-2
■ 創造性の伝統的試行錯誤
 多民族国家である合衆国を除いて、ミラノほど様々な国籍のデザイナーが活動している所はないのではないだろうか。イタリア、とりわけミラノでデザイン活動を行うデザイナーは、有名・無名を問わず、イアリアはデザイン・パラダイス(il paradiso del DESIGN)であると言い切る。これは単なる主観的な意見ではなく、実際ミラノでデザイン活動を行うにあたっては、これを裏づけることのできるデザイナーにとって好条件があると思われる。その代表的なものを挙げると、第一にデザイナーが日本では考えられないぐらいに社会的に認知されていること。(ただし、デザイナーという言葉は普及していない。イタリアにおいては近代デザインの発生が建築家によって始められていること、そして建築科出身のデザイナーが大半であることによって、一般的にはデザイナーもアーキテクトと呼ばれている。)第二に基本的なデザイン・コンセプトが明確であること。(つまり、売るためだけのデザインではなく、文化思想表現としての創造を重視することの社会的コンセンサスを得ていること。)第三にデザインの質の向上を図るためのデザイナーのサブワーカー及びそのシステムが充実していること。以上の三点がある。
第一・第二の点においては、国によってそれぞれの社会的背景が違うので、一概にすべて肯定することもないのだが(もっとも、創り手としてのデザイナーとしては、第一、第二の点はうらやましい限りであるが・・・・・・)ここでは第三の点がどのようにイタリアン・デザインの質を高らしめる役割を演じているかを述べてみたい。
 最も重要な役割を演じているのはモデラーであろう。以前、渋谷の某デパートでミラノのモデラー、ジョバンニ・サッキの展覧会が催されたことがある。多分その展覧会に行かれた方も多いことと思うが、モデラーということで一般的にはモデルのテクニックだけに興味が集中してしまったのではないだろうか。同時に、日本に製品として紹介されていないイタリアン・デザインを見る興味も会ったと思うが・・・・・・。
 ミラノには有名なモデル工房が四つほどある。サッキのモデル工房はその中でも規模的に一番大きいとされている。他に、モデル作りの天才と称せられ昔からマエストロと呼ばれている人物も要る。しかし、彼らのモデルのフィニッシュワークは日本のモデラーのテクニックとは少々異なっている。彼らのモデルを表層的なテクニックだけで評価するならば、「あまり上手でない。」ということになるだろう。この余り上手でないモデラーが何故イタリアン・デザインの重要な役割を果たしているのだろうか。
 イタリアのデザイナーにとって、モデルはあくまでもデザインの中間チェックの材料である。自ら創造したものが立体物としてどこまで表現されているか、つまり自己の哲学と思想が立体物の形をかりてどこまで表現されているのかのチェックである。よって、日本において一般的となっている最終プレゼンテーションのためのモデルとは、自ずとその性格が異なっているのである。
 創造が試行錯誤であることを、彼らイタリア人は伝統的に身につけている。それ故、中間チェックのために作られるモデルはデザイン・イメージの確認、修正を促すものであり、これでよしという段階の何段階も手前のものであるとされる。デザイン・スケッチで伝達されていないもの、あるいは図面で伝達されていないイメージ等、コンセプトか平面で的確にとらえられていない点が立体化によって浮かび上がってくる。よって、イタリアのデザイン・プロセスの中においては、モデルはデザインの具体化のための第一歩であると言えるだろう。
 モデルを前にして、創り上げられたに反映されていないイメージをどのように伝達可能なものとして修正をかけるか、ということにかなりの時間が割かれる。あるデザイン一点について、五回から6回とモデルを修正していくことは極く当たり前のことである。そして、この段階を追った修正が行われる時、モデラーはそのデザイン創造に加担する重要な一員となる。よって彼らには、図面等で表現・伝達できないニュアンスを的確につかむ能力が要求されるのである。例えば、「心もち角をやわらかくしよう・・・」と言った時、その角Rは、8か9か7.25かという人間が後に考え出した数値で表現されるのではなく、"心もちやわらかく"がその角Rの指定なのである。その結果がたまたまR8とかR7.25とかであって、彼らにとって大切なのはあくまでも"心もち"という感性であって、それが自己の創造する造形のメッセージとなるからである。
 その時、モデラーは実に根気よくデザイナーに付き合ってくれる。そして、そのデザイナーの造形のくせとでも呼び得るものを直感的にとらえて、それを引き出そうとする。その行為事態は何やら前時代的な感じのするものだが、造形物とは何であるかを知れば知るほど、数値等では割り切れぬ世界が出現することを身を持って知っているということであろうか。
 このようなモデルづくりの制作行程を円滑にするため、彼らのモデルの大半は木で作られる。サッキと話をした時、何故木で作るのかと尋ねたら、即座に「木は生きているから。」との返事が返ってきた。彼は日本のモデルが非常に精密であることを認めているが、大半がABC樹脂で仕上げられていることに疑問を感じているらしい。ABC樹脂で精度を上げることはできるが、肌のぬくもりを感じ、手で撫で回し、納得のいくまで造形と対話するには、木でなくしては不可能だという。このモデルに対する考えはサッキのみならず、イタリアにおいては非常に当たり前のこととしてデザイン・プロセスの中に組み込まれているのである。最終的なマスプロ化においては、鉄やプラスチック等の材質が主に用いられるのだが、その手前のデザイン・プロセスにおいて、人間の五感に心地よいあり方を求めるべく、念入りな検討が為されていると言える。イタリアン・デザインが実にシャープなラインを生み出していながら、何かヒューマンな暖かみを感じさせるのは、このあたりに一つヒントが隠されているのかもしれない。
1983年より各種雑誌に掲載された佐藤康三の原稿をよりすぐりコラム欄に掲載いたします。コラム欄は1カ月おきの月刊コラムとなります。御楽しみ下さい。

第1回にあたる今回は1985年の別冊「美術手帳」に書きました「美しいことをしようよ!」です。イタリア・ミラノでのデザインワークの経験を通して日本でのデザインワークに当時疑問を持ったことなどをかきました。「美しいことをしようよ!」の全文を章毎の3回に分けて御送りいたします。
「美しいことをしようよ!」
■ 美的経験性の提示
次回予告「美しいことをしようよ!」-2:1月
■ 創造性の伝統的試行錯誤
次々回予告「美しいことをしようよ!」-3最終:2月
■思想の伝達、思想の統一
イタリアにおいてデザイン活動を行っている時、デザインコンセプトの第一にあがることは、"facciamo la bella cosa"(美しことをしようよ)ということである。この言葉は一見非常に単純であるように思われるが、これから起こそうとしているデザインを集約的にズバリと表現しているのであり、彼等の文化的背景を踏まえた上で把える時、実に深みのある言葉であることに思い至る。そして、この言葉を通して我々は、結果としての物が工業製品であれ、常に創り出す造形物に彼ら自身の美的経験性を提示するという考えが、彼らの制作時の根本思想となっていることを窺い知るのである。
 さて、彼らの間ではこの"美的なもの"に対する基本的なコンセンサスが互いにとれている。そこで、改めて"美的なもの"とは何であるかという論議はあまり展開されない。"facciamo la bella cosa"という抽象的な表現で十分にこと足りるというわけである。強いて説明を求めるならば、このコンセンサスのより所は彼ら自身のカルチャー・コンテキストに負うものであるとの答えが返って来るであろう。つまり、ルネサンスを文脈上の一つの起点と考え(ここにはギリシャ・ローマの造形哲学を含むものとして)、それ以降の歴史的造形を踏まえた上で、今日における美しい造形とはいかなるものであるかを追求するということである。
 このことを考えると、彼らのデザイン活動が基本的にメタフィジカルな問題をフィジカルな実体としてのイメージの中にどう表現するかということを第一としていることが理解されるのである。このメタフィジカルな問題云々は日本のデザインスタジオにおいて多分に欠落しているところであるが、イタリアにおいて何故果てしない問題提議になるかというと、哲学的発想そのものが彼らの言うところのil mondo(世界)での創造する人間にとって基本的行為であると考えられているからであると思われる。
 1934年にハーバート・リードは『美術と工業』において、デザインを純粋美術に対する単なる応用美術であるとする考えを真向から否定し、デザインを理解するためには美術そのものの本質を明確にする必要があることを説いた。そして、彼はバウハウスの教育理論を推進し、デザイン発展のための哲学、思想教育の急務を呼びかけたのである。その後、教育に対するリードのこの提案は決定的なものとして受け入れられ、ヨーロッパにおけるデザイン教育の根本を形作ったと思われる。実際現在においても、ミラノ工科大にしろミラノデザイン工科にしろ、その教育の中心は、建築あるいはデザインという表現を違えたとしても共通して言えることは、現代において我々が何を創り提供していくかという哲学教育が非常に大きなウエイトを閉めているということである。
 表層的な経済活動としての工業デザインを発展させるには、細分化された各デザインプロセスに専門職を設け、それぞれの専門家にポイントの見合ったデザイン・テクニックをマスターさせれば、全体として効率のよい流れが出来上がる。これは、例えばアメリカにおけるデザインプロセスの発達に見られることで、確かに合理的なやり方であるかも知れない。しかし、このやり方はデザインという創造活動の上に知的差異が生じることを前提としていない。ここでは、デザイナーは経済に隷属する関係を強いられるのであり、かつてのパトロンに対するアルチザンの関係から一歩も抜け出てはいないのである。
 イタリアにおいては、デザイナーは創造(知的創造)をすることを前提としている。よって、最終的に事物化される造形は当然差異をもった各デザイナー自身の投影である。そして、前段階での教育においては、その知的差異をいかにして導き出すことができるかが最重要な課題なのである。
つづく
次回「美しいことをしようよ!」-2
■ 創造性の伝統的試行錯誤